07/08/06

碧州から貴陽にやって来て、もう一年以上が過ぎた。
けれども、ここまで酔い乱れたこのひとを、僕は見たことがない。

「大丈夫ですか、」

思わず手を差し出して、それなのに直前で止めてしまった。
ほんのりと染まった耳を見て、いかがわしい心持ちになったのだ。
手を引っ込める機会を失い、目をあちらこちらにさ迷わせる僕を、あのひとがみつめる。
正確には僕の手を、
じっと、身じろぎもせずに。

暗闇で見るその瞳は、黒々と濡れていて、どきりとする。
金縛りにあったように、僕は固まっている。
普段なら、僕が困っているとすぐに助け舟を出してくれるあのひとが、何も言わない。
ただただじっ、と見つめられて、どうすればいいのか見当もつかない。
途方に暮れてその瞳を見返すと、
体は動かさぬまま、手だけをすい、と伸ばされる。
その仕草を、ああ、綺麗だな、と場違いにも見惚れていると、
手を引き寄せて、ぺろりと舐められた。
ぎゃ、と叫んで思い切り振り払って、手を胸に握りこんだ。
そのとき別の手で触れた自身の手のひらは、汗でじっとりと濡れていた。
こんな手を、舐められるだなんて!
ならば乾いた手ならいいのか、やら頭の中で問答が怒涛のように湧いて、
それに比例して体は汗ばんでゆく。
焦りに焦って息を乱す僕を、あのひとはやはり、じっと見ている。

急に体の力が抜けて、その場にへたり込んだ。
なんなのですか、
呟いた吐息は、病でも患ったかのように熱かった。
それに驚いた瞬間、涙がぽろりと零れた。
更にそれに驚いてぽろぽろ、とめどなく粒が流れてゆく。
どうにも止まらなくって、顔を覆った。
一番見られたくないひとの前で、こんな、
多分、初めは、馬鹿にしているのか、僕のことが嫌いなのか、みっともない、
そういった涙だったのだと思う。
けれども、そんな涙を流しているうちに、
仕事がきついだとか、役に立たなくて悔しいとか情けないとか、働いている意味がふとわからなくなるだとか、
絶対に誰にも知られたくない思いが溢れて次から次へと零れてゆく。
おまけに、僕に芸才があったらどう暮らしていただろう、だなんて、
とうに振り切った筈の劣等感まで湧いてくる。
環境に中途半端に慣れてきたせいで気が緩んだのだ。
頭では、わかっている。
それでも、胸苦しくって、堪らない。
一番知られたくないのに。
けれどもきっと、あのひとは僕の気持ちを正確に見抜いていることだろう。
苦労して地道に今の地位に就いたひとだ。
同じように涙したこともあるのだろう。
それでも、今の僕はあのひとに優しい慰めを掛けられるのだけは嫌だった。
かといって、その程度の男か、と見離されるのも堪らない。
ゆるゆると顔を上げると、目の前にかのひとがいた。
美しい敷布に膝立ちになって、じっ、と僕を見ている。
その瞳には、何の色も浮かんでいなかった。
絶望的な気分になった。
目の前に黒い紗が掛かったように、劇的に視界が変わる。

そんなうすらぼんやりとした耳元で、ジャラジャラと装飾具が鳴る。
再び顔を上げると、あのひとの顔が目の前に迫っていた。
身を震わせたが、顔を掴まれて逃げることも敵わない。

「前々から思っていましたが、」

ほっそりとした指が涙の跡を拭う。
その指先が思いのほか熱くて、 薄い唇が開くのを眺めているしかなかった。


「あなたは、可愛らしいひとですね」


目元をぺろり、と舐められた。
唇は甘く、色の無い筈の目は潤んでいて、
殺し文句くらい選んでくれ、と訴えかけた僕の口は、
気づけば玉さんの、やはり熱い舌を啜っていた。


[キッスは目にして]