07/02/19

「裸婦モデルやってくんねぇか?」

軽く、なんでもないように掛けられた声にうんざりとした心持ちで振り向く。

「あんた、他の学生にもその調子で持ちかけてるんですか?」
「いや、こんなん頼んだのお前が初めてだぞ」
「でしょうね、でなけりゃ今頃法廷の真っ只中にいるでしょうね」

玉の通う芸大の教授の一人であり、直接に師事を受けている講師である飛翔は、ガラが悪かった。
個性派ぞろいの芸大と言えど、こんな男に裸婦モデルなんぞ頼まれたら普通の女学生は恐ろしかろう。
ある種の女優のスカウトと勘違いするかもしれない。

「で、どうなんだよ。受けてくれんのか?」
「報酬は?」
「そうさなぁ、高級ホテルのディナーにでも連れてってやるか?」
「……なんであんたが今まで捕まらなかったのかが不思議です…」

こめかみが痛んできたような気がする。
なんだこのセクハラジジィは。
一応、若い女が喜びそうなものを考えたようだが、逆効果だ。

「いいですよ、その代わり隣県の山中にあるお豆腐屋さんに連れて行ってください」
「そんなんでいいのかよ」
「私は洋食も好きですが、何より素材を生かした美食が好きなんです」

飛翔はそうか、と笑うと講義始めっぞ、と玉の背を叩いた。
それにしても。

「なんでいきなり裸婦なんて描く気になったんですか?」
「描きたくなったからに決まってんじゃねぇか」

こういう男である。
玉はこめかみを揉みながら、画材を持った手で器用に教室の扉を開けた。



日にちはいつでもいいと言った飛翔を、玉は今日のうちに済ませましょう、と押しきった。
面倒事はさっさと片付けるに限る。
いつも身だしなみに気を使う自分である。いきなり裸婦モデルにされても困る事情などない。
鼻息も荒く、待ち合わせの教室に入った玉であったが、

「別に素っ裸になんなくてもいいぞ。体の線と陰影がわかりゃいいから」

水着なり下着なり着けてろやそのへんにあるから、とのたまわれて拍子抜けした。
人物デッサンによく使われているこの室の隅にはそれこそ、シーツやバスローブ、数着の水着などが用意されていたが、
他人の使用済みの水着を着る気には到底なれず、結局下着で挑むことにした。
裸婦を見慣れている玉からすると、この状況で下着を身に着けている方がおかしかったが、
こんなオッサンに珠のお肌を見せるよりはマシだろうと、気にしないことにした。

椅子にストン、と腰を下ろしてバスローブを脱ぐと、うえ、と飛翔が顔を歪めた。

「黒ってお前ぇ…テメー、いくつだ小娘」
「21歳ですよ、ジジイ」

人の歳くらい覚えておけ、とそっぽを向くとそうじゃなくて若い娘が悪い男がとブツブツ言っていた。
意外と細かいオッサンなのである。
長いので窓際まで椅子を持っていって、流しに頬杖をついて外を眺めていると、シャッシャッと小さな音が聞こえた。
既にデッサンを始めているのに、慌てて椅子ごと元の位置に戻ろうとすると、止められた。

「や、そのまんまでいいから。外眺めてろ」

あまりに真剣な表情に、中腰の体勢のまま、再び腰掛ける。
そうしてまた外を眺める。
やがて静かに、飛翔が作業する音だけが響いた。

窓の下の中庭では、学生や教授が思い思いに過ごしている。
丸めた画用紙で野球をする学生やそれを野次る男子生徒。
輪になって何事か騒いでいる女子生徒や、遅い昼食を食べる仲の良い男女。
コーヒーを手に、のんびりとタバコをふかす教授たち。
あまりにのどかで、春の日差しにうたた寝してしまいそうになる。
これこれ、紫外線が容赦なく降り注いでますよ、と天使が囁いてきても、
毎日お手入れしてますとも、と悪魔に寄りかかって大あくびでもしたくなってきた。
それでも誰かさんが必死で小娘の下着姿をデッサンしているので我慢した。

まさか、こんな穏やかな時間を共有出来るようになるとは、入学当初の自分たちからは想像も出来なかった。
課題を見せれば方向性の違いに頭を抱え合い、芸術論を語り合えば激戦となり、酒が出れば飲み比べとなった。
最初はいくつかの意味合いを持って手加減していた飛翔だが、玉の才能と努力を認めるとそれまで以上に容赦のない言葉を放つようになった。
玉はそれに反発と喜びを同時に感じ、そして気の休まらぬ厳格な師を得た。そう思った。
しかし時が経ち、大勢で遊びに行ったことを皮切りに、二人で個展や美術館、果ては日帰りの遊びにまで出かけるようになった。
そのうえ、スッピンまで見せた。
日帰りで釣りのつもりが、あまりの収穫のなさにリベンジだ!と、車の中で一夜を過ごしたのである。
今まで付き合ってきた男どころか、兄弟やほとんどのお手伝いたちにも見せたことがないのに。
仲良くなった講師と出かける生徒はいるものだが、まさか自分たちがそうなるとは思わなかった。

ふっと、横を向くとと飛翔は自分の作品をしげしげと見つめていた。
随分と描き込むことが出来たらしく、どこか満足げであった。

「どうですか、出来映えは」
「ん、まぁまぁだな」

飛翔のまぁまぁがどれほどの評価なのか知っていたので、玉は好奇心が擽られた。
けれども、飛翔の目に自分がどのように映っているか知るのは少し躊躇われて、結局何も言わなかった。
その代わり少しからかってやろうと、意味深な目付きをして見せた。

「あんたがデッサンをしている間、ずっとあんたのことを考えていたんですよ」

はぁ?と、最上級に驚いた顔をした飛翔に溜飲が下がる。何故かはもはやどうでもいいだろう。

「私がこの歳になってスッピンを見せた相手はあんただけなんですよ」

そのときのことを思い出し、憮然として言うと飛翔はあ然とした顔で問うてきた。

「家族にも見せてねぇってのか?」
「ええ、もう私の素顔なんて忘れてるんじゃないでしょうか。恋人には、当然ですね」
「見せてやれよもったいねぇ」

飛翔は溜め息をつくと、玉のすぐ傍までやって来て、柔らかい髪を撫でてやった。

「別嬪さんだったぞ」

この巻き方にどれほど時間をかけているかだのなんだの言葉の羅列が頭に浮かんでは流れる。
そして消える。
パチン。
弾いて消えたその音に押されるように、
玉は飛翔のよれたシャツの胸元を、そっと掴んだ。

「じゃあ、今度は見せても引かない男性と付き合います」

飛翔はこのえらく華奢な手をどうしたものか、と見つめる。

「引かれることはねぇんじゃねえか?」
「なるほど、それでは選択肢が広がりましたね」

結局、己の無骨な手のひらで握り込んでみた。


「俺にしとけよ」


そう、目を細めて。
返事を待たずに落ちてくる口づけに、
俺にしとけよ、もなにも。
私はずっと、ずうっと、待っていたんですけどねぇ。
と心の底から毒づいた。


[横顔がきれい]