07/02/27
コツリ、コツリ、と自分の足音がやけに大きく聞こえる。
防音に優れた個室とむせるような花の芳りは、外にも世界が広がっているということを忘れさせる。
ここに来る客の大半がそれを望むのだ。
しかし足元に跪く男は、どう見てもその手合いには見えない。それがえらく憎々しい。
「レディS、お仕置きはまだ?」
目隠しをされ、ゴム製の手錠をされた男は飄々とこちらを見上げた。
その仕草は目隠しをしていてもこちらの行動や表情はお見通しだと言わんばかりに思えて。
Sはそんなこの男が、嫌いだった。
「…自分から仕置きをねだるとは良い度胸だな」
わざとらしく、手に持った鞭をピシリ、としならせると、男もまたわざとらしく震えた。
「おぉ、恐ぇ。さすがS様。ところでS様のSってサドのS?」
「貴様に教えると思うか?」
鞭の尖った先端を首にグッと押しつけると、男は苦しそうに笑った。
「なぁ、教えてくれよ」
痛みすら愉しむような余裕の笑みに、苦々しい思いで更に鞭を押しつけた。
そうして、グラリとよろめいた体を蹴り上げ、肋骨を思いきりピンヒールで踏みつけた。
この男と出会ったのは、数年前の冬の日のことだった。
一仕事終えて店のカウンターバーで飲んでいると、冷たい隙間風が身を襲った。
扉を見やると、どう見ても冷やかしとしか思えないスーツ姿の男が間抜け面で突っ立っていた。
毛皮の隙間から覗く素肌に風は冷たく、ジロリと睨むと、男は慌てて扉を閉めた。
そして了解も得ずにフラフラとSの隣に腰掛けると、
「すげぇ綺麗な女王様だなぁ」
と、それはそれは酷い阿呆面でのたまったのだった。
男の名は燕青といって、飲み会の罰ゲームで店に寄ったという全くの冷やかしであった。
それから、燕青は週末にはほぼ毎週この店に通うようになった。
その手の趣味はこれっぽちもない男だったが、売れっ子のSを捕まえるためだけに高い金を払っていた。
この界隈の住人たちはみな、いつまでもつか、と半ば冷笑しながら眺めていたものだったが、
今ではすっかり馴染みとなり、燕青が出張で来れない日などは他の店の者まで寂しがる始末だった。
Sにはそれがひどく面白くない。
こんな何も知らないような男に訳知り顔で生活圏内を引っかき回されるのはごめんだった。
だからSはこの男が、嫌いだった。
一頻り嬲ると、Sは微かに息を吐いて下腹に跨った。
そうしてゆっくりと上体を倒すようにしなだれかかると、首筋から胸にかけてねっとりと舌を這わした。
ゆるゆると肌を伝っていくと、感じているのか腹筋が細かに動いて面白かった。
唇で乳首を覆い、歯で引っ張ると瞬間的に眉をひそめた。
それを宥めるように舌でねぶってやると堪らないように腰をゆるく突き上げてきた。
「これ外してくれよ」
縛められた腕を突き出す燕青に、内心舌打ちしながら余裕の笑みを作る。
「もう我慢できないのか?」
「うん、もうムリ。欲しい」
嘲るような問いも気にしない男に、しぶしぶSは手錠を外してやった。
いくら加虐する側といえど、風俗嬢である。客の意向を無視することは出来ない。
燕青は自由になった両手で感触を愉しむように、跨るSの太ももを撫でた。
素晴らしい脚線美を誇る太ももは、手に吸いつくように瑞々しく、柔らかい。
その動きが戯れるような無邪気なものからセクシャルなものに変わってゆくのに、Sは顔を背けた。
いまだ目隠しをしたままだけれども、その下にはきっと悪戯を企むような瞳があるのだろうと思うと、落ち着かない。
燕青の手がSの下肢を伝い、ボンテージに辿りつき、そして腰骨の上に付いた小さなジッパーを下げた。
ジジジ、と短い音。
「な、顔を跨いでくれよ」
頷き、膝立ちになると太ももから小さな下衣が滑り落ちた。
そのまま顔を跨いで、腰を落とす前に、小さく、気づかれないように息を吸った。
「舐めろ」
そう言うなり、燕青はSの太ももを掴んで貪るように吸いついてきた。
声を上げそうになって、燕青が見えないのをいいことに両手で口を覆った。
燕青は全てが露出するようグッと押し開くと、容赦なく舌で攻めた。
其処に執拗に舌を埋め込み、味わってから今度は隠れた小さな粒を食んだ。
堪らず腰が派手に上下に動いたが、燕青の力強い腕がそれを逃さない。
食むように唇で挟んでから、舌を窄めて上下に扱いた。
手で掴むものもないので、爪先に力を込めてやり過ごそうとするが、苦しさは変わらない。
感じやすいSにはもはや何らかの拷問のようしか思えない。気持ちいいなどとは到底思えない。
ただ、ひどい衝撃に体が跳ねる。力を込めすぎた爪先が冷たい。
しばらくして粒から舌が離れ、その代わりに硬い指が弄る。
舌はゆるゆると移動し、再び塞いだ。濡れた其処に限界まで舌がねじ込まれる。
わけのわからぬ、いくつもの衝撃にSの頭の中は煩雑に乱れてゆく。
その一方で、どこか別の次元で頭が澄み切っていく。
この男は、なんなんだ。
普通の風俗では満たされない特殊な趣味の者が集うこの店では、過激な行為は出来ても、本番は禁止されている。
ここを訪れる客には、そうする必要性がないからだ。
けれども燕青のような、尋常な男にはそれは我慢出来ないだろう。
それでも毎週Sを束縛する時間のために高い金を支払っている。わけがわからない。
思いを遂げたいならホテルにでも誘えばいい。
心が欲しいなら仕事時間外に食事にでも誘えばいい。
わざわざこんな不自由な思いまでして何年も通わなくていいだろう。
Sには燕青の心が見えない。
ヘラヘラ笑ってなんでもない顔をして貪るように求めてくる。
太陽の下を歩いているのが似合いの男が、何も知らない、全てを悟った目で自分を乱す。
もう、どうにもこうにも、我慢ならない。
下を見ると、燕青の口まわりは溢れた体液でぐちゃぐちゃになっていた。みっともない。
Sの視線を感じたのか燕青は動きを止めると、ニカッと笑った。
夜の街に似合わぬ笑顔に、胸苦しさを感じる。
暗い水底で生きるものが、太陽の下に無理やり引きずり出されたような、
舌の代わりに、太い指が激しく出し入れされる。
Sは堪らずに反り返り、とうとう声を上げた。
侵食される。
「もう来るな」
シャツを着込む、燕青が振り向いた気配がする。
何故だかそれを見ていられなくて、Sは片膝を抱え込んで俯いた。
数拍の沈黙の後、髪をクシャッと撫でられた。
「ん、わかった」
そう言うなり、身支度を終えた燕青はのんびりと部屋から出て行った。
Sはただただ俯き、座り込んでいた。
わかった、だと?
どれほどあの男が自分をかき乱したものか。
己がどれほどこの場所に相応しくないかも考えずに、我が物顔で振る舞って。
こちらの都合も考えずに、自分の気持ちばかり押しつけて。
私がどう思っているかも確かめず、聞かず、興味もなく、
そのくせ、全てを見透かす目で、目で、
バンッ、と力任せに扉を開ける。高いヒールに転びそうになりながら店内を走り抜ける。
普段は落ち着いたSのその様子に、皆ギョッとして身を引いた。
店を出てあの後姿を探すが見つからずに、適当な方向に走り出した。
夜明けも近く、空が黒から藍へと様変わりしている。
空気は冷たく刺すようで、息をするのが苦しい。露出した全身の皮膚が痛い。
舌打ちしながら角を曲がって、見つけると同時に叫んだ。
「ふざけるな!」
突然の罵声に、燕青はギョッと振り向いた。
「ここまで人を馬鹿にしておいて、よくもわかった、なんぞ言えたものだな!
何もわかってないくせに、知ったような顔をするな、人をひっかき回すな!」
燕青は力の限り叫ぶSに戸惑ったようにそろりと近づく。
Sは一頻り叫ぶと、急に息切れを感じて、ふらふらと体を揺らした。
その様子に燕青が気遣わしげな表情で伸ばした手を、Sは思いきり振り払った。
腹の底から、ひどい怒りを感じた。
「馬鹿にするな!」
体は息切れと眩暈でふらふらと揺れ、それでもSは睨み続けた。
一度、口にすると止まらなかった。
「馬鹿にするな、馬鹿にするな、馬鹿にするな!」
燕青は既に足を止めている。近づいて来ない。
「馬鹿にするな、馬鹿にするな、馬鹿にするな、馬鹿にするな馬鹿にするな」
Sは己を突き上げる衝動に気が高ぶり、泣きそうになった。
風が冷たい。空気が寒い。喉が痛い。頭も足もどこもかしこも痛くて堪らない。
「馬鹿にするな…」
自分の哀れっぽい声に、心の底から嫌気がさす。
何をやっているんだろう。
いきなり店を飛び出て、客に怒鳴り散らして。
ピンヒールはあちこち疵ついて、もう使えそうもない。
気に入っていたけれど、もう使うこともないだろう。
じっと爪先を睨んでいると、そっと暖かいものに包まれた。
「まさか追いかけてくれるとは思わなかったから、」
Sの肩に自分のコートを羽織らせながら、燕青は微笑んだ。
一定の距離を保ったまま、Sを傷つけまいとするように、
「嬉しかった」
コートを肩から落とそうとするSの手を掴み、大事そうに包む。
そして反対側の手で、きつく睨みつけるSの眦をなぞった。
「来るなって言われたから、今度お仕事の時間以外に食事にでも誘おうかなって思ってたんだけど、」
獰猛なSの視線を受けても、燕青は飄々としている。
Sを侵食する瞳は、相変わらず見透かすように澄んだ黒をしている。
だから、どこか潤んだように見えるのは、気のせいだ。
「どう?」
ふざけた問いだ。
だから、眦に触れる手がためらいがちなのも、その瞳が近づきたい、と請うようなのも、
全部、気のせいだ。
けれども、
「それからさ、本当の名前教えて」
永遠のような、
一瞬。
Sは心の臓が変な音を立てて止まった気がした。
ぽかり、と開いた唇が好き勝手に言葉を紡ぐ。
「静蘭。静かな、蘭」
その音に燕青は驚いたように少し目を見開く。
そして、それは嬉しそうに目を細めた。
一瞬の仕草がスローモーションのように目に焼きついて、離れない。
ああ、どうしよう。
「いい名前だな、静蘭」
その名が、こんなにも心地いいなんて。
その名が、こんな幸せな微笑みに迎えられる日が来るなんて。
これは、侵食される快感だ。
分別も何もない生ゴミの臭いが散らばり、視界の隅にはカラスがそのゴミを漁るのが見える。
朝焼けは雑居ビルに切り取られて感動もクソもない。
けれど、
燕青の肩越しに見える光はいっとう輝かしく見えて、
静蘭はわけがわからないまま、目尻に浮かんだ涙を拭った。
[あなたのまわりだけ違う星]