07/09/09

そう遠くないところから、ゴソゴソ、と音が聞こえる。
その物音を、飛翔はよく知っていた。
女が、帰ろうとする音だ。
長い間、男やもめの飛翔であったが、偶には女と夜を過ごすこともある。
そして翌日の朝は、決まってこの物音がする。
密やかな、忙しない音。
起き上がって玄関先まで見送ることもあれば、
互いに知らぬふりをして、
そのくせ後姿をベランダから目で追うこともあった。
けれども、その音をここまで名残惜しいと思うのは、初めてだった。

ゴソゴソ、ゴソゴソ、

音だけ聞くと物盗りのようだが、艶がある。
こちらを起こすまい、と気遣う密やかさが、いっそう名残惜しい。
飛翔はフッと、目を開けた。
途端にゾッとするほどの冷気が全身を襲い、半分寝惚けた意識がようやくハッキリした。
まだ薄暗い。
腕で身を擦りながら、毛布代わりのダウンを引き上げた。

教え子と、山に釣りにきたのだ。
けれどもさっぱり釣れないものだから、泊り込んで続行することに決めた。
二人とも熱くなりやすいのが敗因だった。

(敗因ってなんだ…)

ある意味、敗因である。
日帰りのつもりであったから、寝具や毛布など持って来ておらず、
夏だし大丈夫だろうと舐めてかかったせいで、もはや風邪を引きそうだ。
ズズ、と鼻を啜りながら車の狭いシートに身を沈めた。
その途端、後部座席の物音が止まった。
ああ、教え子だ。
ということは、先程からの物音は、
飛翔は、勢いよく、後ろを覗き込んだ。
すると、

「いきなり振り返るんじゃありません!」

車全体を震わすほどの一喝を浴びた。
朝からこれかよ。
ゲンナリとした飛翔に追い討ちをかけるように罵声は響く。

「あなたは、教え子といえども私は女なのですよ、声ぐらい掛けなさい声を」
「ああ‥」

すっかり忘れていた。

「ああってなんですかああって! もう、とにかく前を向きなさい、化粧をしていないんです!」

そう言って、玉はハッと口を押さえた。
飛翔は前に向き直りながら、然もあらんと頷いた。

「そういや、なんか顔が違うな」

最後まで言い終わらぬうちに、ドンッと座席に衝撃が走った。
玉が思いきり蹴ったのだ。

「オイ、コラ、
「この‥親父! デリカシーの欠片もありませんねっ!」

玉は二度三度座席を蹴ったくると、荷物を引っ掴んでドアを開けた。
ご丁寧に、ほっかむりのように頭からタオルを被っている。

「オイオイ、外は冷えるぞ、
「うっさいですね、いくら親父でも、男性の前で化粧するわけにもいかないでしょうがっ!」

玉は振り向きざまに思いきり喚いてドアを閉めた。
振動で、車全体が揺れた。
そのままズンズンと、川の方へ去っていった。
残された飛翔はポリポリ頬を掻く。
玉の顔が真っ赤だったせいだ。
派手な外見で合理的な言動をする割に、男の前で化粧をするのを恥じる。
飛翔が前を向いていれば、別に見られるわけでもないのに。
そういういじらしさに、オジサンは弱い。
なんとなく照れくさくて無精髭を引っ張りながら思い出すのは、
玉の振り向きざまの横顔だ。

ほとんどほっかむりで見えなかったが、
柔らかい髪と睫毛と、鼻先だけがちょこんとのぞいていた。
その鼻先は、ゆで卵とか、剥いたマスカットとか、そんな風につる、としていた。
何も塗られていない、柔らかそうな焦げ茶色の睫毛は、
恥らうように、ふるりと、一度震えた。

「わかってねぇなぁ」

本当に、わかっているようで、わかっていない。
その幼さに飛翔は少し笑みを洩らしたが、不意に固まった。
夢うつつに、玉の身支度の音を、己がどう思ったものか。
何に勘違いしたものか、恥ずかしくって、思い出せたものじゃない、と。
反りの合わない、教え子とばかり思っていたのに。

「あいつのこと、言えたもんじゃねぇ」

俄かに落ち着かなくなった飛翔は、上着や荷物をバタバタひっくり返して煙草を探す。
そのまま唇に咥えて、忙しなく火をつけた。
が、「臭いがつくじゃないですか!」と怒鳴る声が聞こえた気がして、慌てて車を出た。
いっそうの冷気を感じてぶるりと震えて、飛翔は弾けるように笑い出した。

(すっかり尻に敷かれてんじゃねえか。)

どうにも可笑しくって、煙草を吸いながらにやにや笑う。
ふと気づくと、辺りは徐々に明るくなりつつあった。
飛翔は空を見上げる。

あいつの髪をきらきら照らす、明るい光が空に昇る。



[きらきら ひかる]