07/02/21

師走の某日。
木枯らしも吹きすさぶ藍家本邸の庭で、楸瑛は弟の子守をしていた。
子守といっても、龍蓮相手にそこらの子供に対するあやし方をしても全くの無駄である。
かといって龍蓮の奇っ怪な行動に付き合うには莫大な気力を要する。
というわけで楸瑛は子守を命じられた際には、弟の身に危険が及ばないよう見張っておくに止めておいた。
言い換えれば、単に眺めているだけである。
楽な仕事だ。
それでも、幼い楸瑛には弟の行動は眺めているだけでもえらく疲れた。
そのうえこんな寒々しい場所でひたすらじっとしているので、確実に体温を奪われていっている。
ああ、邸に入りたい。
それでうんとあったかくしてお茶を啜るのだ。蜜柑も食べたい。
弟も小さな体をして寒かろうに、先程からある低めの木の周りをウロチョロしている。
チョロチョロしすぎて地面には足跡が波線のようになっていた。
なんだ、足で魔方陣でも描いているのか。
自分から進んで弟には近づきたくない楸瑛だったが、さっさと邸に戻りたいという欲求が勝った。

「さっきから、何をしているんだい?」
「あれ」

龍蓮はわからないのか、と言わんばかりの仏頂面で木の枝を指差した。
その丸っこい指の指す先には、蓑虫がぷらぷらと揺れながらぶら下がっていた。

「………欲しいの?」
「うむ」
「じゃあ、取ってあげようね」
「うむ」

『うむ』じゃないだろう、『うむ』じゃ。
激しく脱力しながら、楸瑛は長い袂を腕まくりした。
いくら低い木といえども蓑虫の付いている枝はまともに手を伸ばしたところで届かない。
ちゃっちゃと取ってきて満足させて、それで玉露と紅州産蜜柑を頂こう。新しい詩歌の本も読破してやる。
鼻息も荒く幹に手を掛けたところで弟にチョイチョイ、と袖を引かれた。

「私が取る」
「え……」
「私を、あの枝に乗せろ」

何故そうも面倒臭い方向に持っていくのだこの弟は。

「いや、でも危ないよ。落ちたらどうするんだい?」
「幼子の体は柔らかいゆえ、落ちても大したことにはならない」

自分で『おさなご』とか言うな。
結局、楸瑛は弟を肩車して木登りして枝に乗せてやった。
じわじわ蓑虫に近づく弟の動向を、枝の下でじりじりしながら見張った。
ああ、もうこうなったらいっとう美人の女中の膝枕で父上の蔵書を乱読してやる!
だいぶ擦り切れてきた神経で暗い炎を燃やしていると、何かが頭にポトリ、と落ちてきたのを感じた。

「愚兄其の四、動くな」

それで落ちてきたものの正体がわかった。
そしてゲテモノに弱い楸瑛はギクリ、と身を強張らせてしまい、それが悪かった。
蓑虫は頭から転がり落ちて背に入ってしまった。うわあ。
身を捩ると潰してしまいそうで、ピョンピョン跳ねるしか出来ない楸瑛の裾を龍蓮が引っ張った。
お前いつ降りてきた。

「脱げ」

いや、下手に衣を剥ぐと蓑虫の皮まで剥いじゃいそうなんですけど。
青い顔で弟を見下ろすと、龍蓮は仕方なさそうに嘆息して裾をグッと引っ張ると同時に足払いをかけた。
もつれながら前のめりに倒れると、龍蓮は手際よく楸瑛の服を剥がしにかかった。
恐るべき三才児である。
動くと腰の上の弟を転がしそうで、もはやされるがままの楸瑛は見知った声が近づいてくるのに気づいた。
見ると、三人の兄はなんとも言えない顔で固まっていた。
そりゃ何とも言えないだろう。
木枯らしの吹きすさぶ庭園で半裸の少年が幼児に馬乗りされてるなんて…。
とりあえず、異常だ。

「あの、あにう
『龍蓮!!!』

無視ですかい。
半裸で放置された楸瑛はなんだか物悲しくて堪らなくなった。
自分だって邸から出たらチヤホヤされるんだぞ。嗚呼、紫州にでも行こっかな。


『大人になったなぁ!!!』


三人の兄たちは各々、目を潤ませて歓喜どころか狂喜していた。

「もう誰かを押し倒すことが出来るなんて知らなかったよ!」
「しかも恐れを知らずに野外で馬乗りになるだなんて!」
「でも寒くて集中できないから場所は選んでおくように!」

龍蓮は兄たちを無視して、未だに楸瑛の衣を漁っていた。
そうしてお目当てのものが見つかったのか、ふっと微笑んだ。
その滅多にない微笑みに兄たちのテンションは更に上がる。

「厨房に赤飯の準備をするよう伝えろ!」
「酒を用意しろ、白州産の良質な物をな!」
「者ども、今宵は宴だぞ!」

戸惑いを隠せない使用人たちであったが、つられてなんとなく盛り上がってきた。ノリって大事だ。
楸瑛だけがついていけずに地べたに這いつくばっていた。
三人の兄は蓑虫相手にブツブツ呟く龍蓮をヒョイと抱えてきびすを返した。

鬼門の紅州と危険らしい茶州と黒州以外ならば。
やっぱり碧州かなぁ。でも紫州の第二公子に会ってみたい。
容姿端麗、頭脳明晰、剣術や詩歌管弦にも優れた才色兼備と名高いお方だ。
穏やかな気質と耳にするから、きっと気は合うだろうに、


「龍蓮の子守、よくやったな」


去り際に頭に、ポンと手を置かれ、逃避願望はアッサリと消えてしまった。
楸瑛は半裸のままのろのろと身を起こした。
とりあえず。
邸に戻って、湯浴みをして、新しい衣を着て、香を焚いて、宴のための詩を考える。
美人の膝枕も紫州行きも立ち消えたが、仕方ない。
藍州の毎日は忙しいのである。




ちなみに、その日の日記に楸瑛は、

『 風邪をひきました。 』

とだけ記した。
それ以上何かを語れるわけもなかった。


[騒がしい日々]