07/05/08

午後十時二十分きっかり。
大好きな大好きなかの人が、あのドアから現れる。


目に違和感を覚え、手で擦ると、じん、と痺れるような痛みを感じた。
どうにも落ち着かず、じっと横の扉を見つめ続けていたことが原因のようだ。
拭うごとに瞼が気だるげに疲れを訴える。
仕舞いには小さく涙まで滲んだ。
ええい、邪魔くさい。
私はそれどころではないのだ。
更に乱暴に目を擦って密かな攻防を繰り広げていると、

「黎深!」

驚いた風な兄が駆けてくるところだった。


(なんて新鮮な響きなんだ!)
(お迎えすることが出来なかった!)


「黎深、どうしたんだい、こんなところで、」

ジタバタと暴れまわる私の心を知ってか知らずか、兄の声が尻すぼみに小さくなる。
これも新鮮だ。
私はシャキッと背筋を伸ばし、立ち上がった。
なるべく、兄の目に立派に見えるよう。

「どうしたもこうしたも、兄上をお迎えに参りました」

胸を張って答えた途端、くすくすと小さな笑い声が耳に飛び込んできた。

「なあに、邵可くん、その子」

兄の後ろから、また違う制服を着た女が二人、呼んでもないのにしゃしゃり出てきた。
兄上との会話中になんたることだ。

「弟だよ、二人いるうちの大きい方」

兄は寛大にも、微笑みながら答えた。
すると女どもは益々調子に乗って、兄に身を摺り寄せ、甘ったるい声を上げた。

「ええ、うそ、似てなあい」
「お兄ちゃんに似なくてよかったね、目ぇ大きくて可愛い」

なんて無礼な!
それはどういう意味だ己の顔をよく見てみろ、 と叱りつけてやろうとしたが、兄の目に止められた。
その目にどうしても逆らえない私は、むっつりと黙り込み、ソッポを向いた。

「あれ、あっち向いちゃった。可愛いけど」

そう言いながら女どもは兄にピッタリと身を寄せた。
なんと、私をダシにして兄上に近づく作戦だったのか!
勢いよく振り返り、睨みつけた先には、
兄の背中しかなかった。
怒りに狭くなった視界が、兄の制服の紺で染まる。

「ごめん、あんまり遅くなると母さんに怒られるから」

兄はそう言ってひらひらと手を振ると、私の背を押して歩き始めた。
後ろから聞こえる未練たらしい声愛想よく応えながら。
私のために、ひどい嘘を吐きながら。


「黎深、

「あの女どもと、どういった関係なのですか」

「只の友達だよ。同じクラスなんだ」

「絶対に、兄上を狙っております。危険です」

「あの子たちにはちゃんと格好良い彼氏さんがいるよ」

「相手が居ながら兄上を狙うだなんて!」

「私なんか眼中にないよ」

「…兄上のクラスの講義終了時刻は十時と聞いております」

「今日は少し長引いたんだよ」

「あのような愚昧な輩のために兄上の貴重なお時間が使われるだなんて我慢なりません」

「私は楽しいよ」

「やはりこんな塾なんかやめて、

「黎深」

夜も深まってきたというのに、道は明るい。
街灯や店の照明のなんと忌々しいことだ。
夜だというのに、兄上のお傍に寄れない。付け込む隙を与えない。

「黎深、

「いけませんか」

白い光は、兄の顔を容赦なく照らすのだ。
相対する。
最大限の、勇気を振り絞る。

「家までの帰り道を、たったそれだけの時間を共にすることも、
 許しては頂けませんか」


本当は、言いたいことがもっと沢山ある。
一緒の学校に通いたいとか、同じ家なのに部屋が遠すぎるとか、三日に一度も顔を合わせられないなんてとか、
距離を、置かれるのがひどくつらい、とか、
好きで好きでやまないこととか、
沢山の思いが体に満ちて目やら口やらから溢れ出そうで怖い。
けれども実際は、どこもカラカラに乾いて、痛い。
もどかしくて堪らないけれど、兄の目に縛られた私は言葉も出ない。
真っ黒な瞳は私の言葉の全てを全て吸い込んだかのように、深い。

(なんて澄んだ黒なんだ)

状況も忘れて目を奪われていると、兄はここで待っているように、と言い残して何処かへ行ってしまった。
待っておりますとも。
はて、それをきちんと言葉に出来ただろうか、と頭の隅でぼんやり思った。

なんて澄んだ瞳なのだ。
水晶の、通過する透明さとは違う。
どこまでも吸い込むような、深い瞳なのだ。
私はその色を知っている。
口を開けたまま上向くと、雲のない真っ暗な夜空が広がっていた。
この色だ。
どこまでも見渡せる透明な空でなく、どこまでも吸い込むオニキスの空だ。
その空に、突如として真っ白な楕円が飛び込んだ。

「はい」

次いで、兄の笑み。肉まんだ。

「熱いから、気をつけてね」

そう言って、肉まんを私の手に乗せると、
スーパーの袋からあんまんを取り出してそのまま立ったまま、食べ始めた。
兄は嬉しそうに、あちち、と笑っている。
コンビニではなく、スーパー。
こう言うのもなんだが、なんとも兄上らしい。
手の中の肉まんをじっと、睨みつける。
兄は肉まんを渡してくれただけであって、許すとは言っていない。
そしてこれからもきっと、許すとは言ってくれないだろう。
それでも、もう来るな、と言わないのは、
もしかして、

手に余る肉まんは絶え間なく湯気を上げてる。
白々とした熱気は、すぐに紺色の空気に溶けては消える。
その湯気は一体何処へ行くのか。
ふと気になって、ならば天に、あの空に昇ってゆくのがいいと、
目に見えぬ道筋を辿るように徐々に目線を上げていった先に、兄の顔があった。
ならば天に昇ってゆくのがいい、だなんて。
思いもよらず、頬が熱くなってゆく。
いたく恥じ入って俯いてしまいたかったが、兄の顔からどうにも目が離せなかった。
兄はとても、やさしい貌をしていた。
私はその表情に甘やかされるまま、肉まんにかぶりついた。
途端に熱い具が口の中で弾け、目を白黒させて飛び上がった。
兄は小さく笑って、私の口の周りを拭ってくれた。
甘やかされている。


真冬の帰り道。
口も頬ももう全身が熱くって、どうしようもない夜のことだった。