07/05/18

兄上は私に沢山のことを教えて下さった。
国のことも民のことも、山のことも野のことも、海のことも。


この世にはね、海と云うものがあるんだ、
湖よりも大きな、塩辛い水の張った池のようなものがね、


しょっぱい水がいっぱいだなんて嫌だ、と言った私に、
兄は、けれどもとても綺麗なんだよ、と微笑んだ。
そして、紫州からは遠いから見せてあげれないな、とひどく口惜しそうに呟いた。

そのときの、兄上のもどかしげな視線のひとつすら明瞭に思い出せるのに、
何故それを忘れていたのだろうか。
摘まんだ貝を日に透かすと、まるで兄上の耳のようだった。
兄上はいつも私の隣に腰掛けて、目線を合わせて、滔々と語って下さった。
いつも横を見上げれば目に入った、
透きとおるような、桃色の。
不意に愛しさが込み上げ、貝の口をそっと、己の耳に宛がった。
コォォ、コォォ、と見えぬ潮騒の音がする。

しかし驚いたのはそんなことではない。
胸に、ひどい悲しみが、押し寄せたのだ。
それはただの感情の枠を超え、胸を締め付けるような痛みを伴っている。
それどころか、呼吸をすることさえ危うい。
大きく揺れる指先が、貝を落とした。
カンッ、
それが床にぶつかる高い音で、私は我に返った。
なんだったのだ。
手さぐりで胸を押さえても、やや乱れた鼓動が手の平に伝わるのみだった。
不可解な気持ちを抱きながらも、転がった貝を拾い、
私はもう一度、貝の口に耳を当てた。
コオオオオ、と聴こえた瞬間、私は貝を耳からもぐようにして剥がした。
貝の音だ。
この音色が、原因だったのだ。
俄かに恐ろしくなってきて、私は貝を小箱の底に押し込んだ。
そして上から布を被せるときっちりと蓋をした。

(なんだったのだ…)

兄上から頂いた大事なもの、ということも忘れかけるほど、私はそれに恐れを抱いた。
あの貝のように記憶の底に押し込めて、鍵を掛けた、
思いが溢れる。
胸が痛い。
またぞろ始まりそうな動悸を抑えて、私は逃げるように室を後にした。